2009年02月27日
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新編武蔵風土記稿の「下高井戸宿」を読む Part-1

Written By: 川俣 晶連絡先

 ぼちぼち、新編武蔵風土記稿を少しずつ読んでいこうかと思います。僅かな記述量と侮っていましたが、やはり古い文書は手強いです。

 少しずつ手を付けていきます。

前置き §

  • 大日本地誌体系 (12) 新編武蔵風土記稿 第六巻 雄山閣を対象とする
  • 新編武蔵風土記稿巻之百廿五 多磨郡之三十七野方領に含まれる下高井戸宿のみを対象とする
  • できるだけ文字は忠実に拾っていきたいと思うが、様々な理由から上手く拾えない可能性がある

見出し §

下高井戸宿

 見出しは「下高井戸宿」です。下高井戸は「村」ではなく「宿」となっています。項目としては、「宿」の他に「村」や「新田」が見られます。おそらく、「宿」や「新田」は「村ではないもの」ではなく、「特殊なタイプの村」を意味するのではないかと思います。「宿」は五街道で公的な役割を与えられた特別な「村」を示す言葉だろうと思いますが、厳密なところは更に勉強が必要です。

位置 §

下高井戸宿は、郡の東寄にあり、江戸日本橋へは行程四里

 「郡の東寄」の「郡」とは多摩郡を示します。つまり、多摩郡の東寄りであることを意味します。

 四里は一里が約4kmとして約16kmです。それに対して下高井戸から日本橋への直線距離は約12kmですが、実際には日本橋は江戸城の向こう側にあって、江戸城を南に大回りしなければ抜けられないため、行程四里は妥当な数字でしょう。

 ちなみに、「日本橋」ではなく「江戸城」からの距離と解釈すると、実は江戸城の外堀となる四ッ谷から下高井戸までの直線距離は約8km(約二里)です。この数字を見ると、下高井戸宿は極端に遠すぎるとも言えません。甲州街道の起点は本来日本橋ではなった、という仮説があり得るか?

広さ §

村の廣狭は東西へ十八丁餘(あまり)、南北十四町にすぎず、

 この文の主語は「村」です。つまり、「宿」は「特殊なタイプの村」であるという傍証になります。

 廣狭という言葉の意味はとりあえず明確にはできませんでした。廣(ひろい)狭(せまい)という言葉の組み合わせなので、広さを意味するのだろうと思います。ちなみに検索すると用例はいくつもありました。

 丁と町はいずれも同じ長さの単位であり、1町は約109.09メートルであるようです。丁と町で文字を使い分けている理由は分かりません。

 東西は18*109=1962メートル。南北は14*109=1526メートルとなります。

 現在の下高井戸の地理的範囲は、東西約3km、南北約1km程度と考えられます。おそらく、「東西へ十八丁餘」とは甲州街道に沿った宿場町の部分に限定された長さではないかと思います。「南北十四町」の方は、現在は下高井戸に含まれない神田川北岸の地域も含んでいる可能性があります。「下高井戸」の境界は、「南」は比較的安定しているのに対して、「北」は流動的なので、変化があるとすればおそらく「北」でしょう。『文化財シリーズ26 甲州道中「高井戸宿」 杉並区教育委員会』の地図も、現在より北に膨らんだ地図を掲載しています。

 続く。

※ 結局、1回で2行ちょっとしか読み進められませんでした (汗。

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